【課題3206】
当事者意識が高い人ほど損をしてしまう組織にならないためには、どのような組織設計が必要だと思うか。自分なりの考えをまとめてください。
会議室や朝礼で、当たり前のように使われる「主体的であれ」という言葉。
その響きに、ふと、小さなしこりのような違和感を覚えたことはないでしょうか。
その言葉は、一体誰の願いから生まれ、どこへ向かおうとしているのか。
そして、差し出されたその主体性は、果たしてどこへ辿り着くのか。
組織の中で静かに、けれど確実に摩耗していく人たちの姿を前に、そんなことを考えます。
- 言葉の裏側を覗く
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「主体性」という光り輝く言葉が、現場でどのような「重圧」として響いているのか。その実像を見つめ直します。
- 「個」ではなく「構造」に目を向ける
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動けないのは個人の資質の問題なのか。それとも、誠実な人ほど損をしてしまう「環境の引力」によるものなのかを問い直します。
- 循環のあり方を考える
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差し出された善意が、どのようにその人自身へと還っていくべきか。組織設計の根底にある「あり方」を探ります。
この記事は、主体性と組織設計の関係について、セールスパーソンおよびビジネス指導者としての立場から、私の考え方を整理し共有するものです。
主体性という言葉の“使われ方”
組織を語るうえで、「主体性」は欠かせないキーワードになっています。
予測できない変化の時代、自ら考え、自ら動く。
それは組織にとって、ある種の理想の姿として描かれます。
けれど、その言葉が使われる「現場」の空気を吸ってみると、
どこか違う響きが混ざっていることに気づきます。
本来、内側から湧き上がるはずの主体性が、
いつしか「もっと動け」「自分で考えろ」という、
外側からの無言の圧力にすり替わってはいないか。
もっと言えば、組織が本来担うべき「仕組みの不備」や「設計の甘さ」を、
個人の努力や覚悟という言葉で、そっと覆い隠してはいないか。
もし、主体性が「誰かの負担を埋めるための道具」になっているのだとしたら、
それは私たちが求めていたものとは、似て非なるものだと思うのです。
当事者意識の高い人ほど損をする構造
現場を歩いていると、ひとつの切ない光景に出会うことがあります。
それは、当事者意識の高い人ほど、静かに負荷を深めていく姿です。
誰かが落としたボールを拾い、
綻びが見えれば自ら糸を通し、
組織の境界線にある「名前のない仕事」を、自分ごととして引き受けていく。
本来、その振る舞いは尊いものです。
けれど、それが「善意」や「責任感」に依存したまま放置されるとき、
歪な構造が顔を出します。
何も言わずに引き受ける人は「計算できる戦力」として扱われ、
際限なく仕事が積み上がっていく。
一方で、あえて関わらない選択をする人は、
責任の枠外で変わらぬ日常を送り続ける。
「気づける人」が、その気づきゆえに疲弊していく。
この状態が長く続いたとき、組織にはどのような空気が流れるでしょうか。
主体的に動くことが、どこか「賢くない選択」に見えてしまう。
そんな静かな諦めが、組織の活力を少しずつ、確実に削いでいくのだと感じます。
主体性は“個人の資質”なのか
ここで一度、立ち止まって問い直してみたいことがあります。
主体性とは、本当にその人が生まれ持った「資質」なのでしょうか。
もちろん、気質としての積極性に違いはあるかもしれません。
けれど、それ以上に大きな影響を与えているのは、
その振る舞いが組織の中でどう扱われるかという「環境」の引力ではないかと思うのです。
自ら動いた結果として、
自分の意志が決定に反映され、
新たな挑戦が次の景色を見せてくれ、
増えた負荷に対して適切な対話がある。
こうした「意味のある循環」が信じられる場所では、主体性は誰の心からも自然に、芽を出すように現れます。
一方で、どれほど動いても状況が動かず、
むしろ動くほどに、出口のない消耗だけが積み重なっていく。
そんな環境で主体性を保ち続けるのは、もはや個人の努力の範疇を超えています。
つまり主体性とは、個人の内側に閉じじた問題ではなく、
その人と組織との「あいだ」に流れる、相互作用の結果なのだと思うのです。
「主体的であれ」と言う前に設計すべきこと
では、どのような組織のあり方を描けばよいのでしょうか。
私自身もまだ、その明確な答えを手にしているわけではありません。
けれど、少なくとも二つの視点は、丁寧に手放さずにいたいと考えています。
ひとつは、「行動」と「手応え」のつながりを可視化することです。
主体的に動いた人の声が、組織の決定にわずかでも響き、評価として目に見える形に還っていく。
その「自分の動きで世界が少し変わった」という手応えを、仕組みとして担保すること。
もうひとつは、「特定の誰かの善意」に甘えない勇気を持つことです。
負荷の偏りを個人の責任感で解決させず、構造としての不備として正視する。
偏りを放置したまま発せられる「主体性」という言葉が、どれほど残酷に響くかを知っておく必要があります。
そして何より大切にしたいのは、「主体性を強制しない」という逆説的な姿勢です。
前に立って進む人もいれば、
背後で役割を静かに、確実に全うする人もいる。
全員が同じ温度であることを求めず、多様な「居方」を等しく尊重する。
そんな、無理のない静かな共存の中にこそ、
枯れることのない、健やかな主体性が宿るのではないかと思うのです。
主体性は誰のためのものか
改めて、自分に問いかけてみます。
「主体的であれ」という言葉は、一体、誰のためにあるのか。
もしそれが、単に組織の数字や効率のためだけに使われているとしたら、その言葉はやがて誰かの心を削り、不毛な渇きを生んでしまうでしょう。
けれど、その主体性が、その人自身の成長や「自分らしくあること」の納得感に繋がっているとき、それは外からの要求ではなく、内側から静かに立ち上がってくる力になります。
組織とは、単に成果を出すための装置ではありません。
そこで働く人の「在り方」が滲み出し、編み上げられていく場所でもあるはずです。
だからこそ、主体性を求める前に、その主体性がどこへ向かい、どのようにその人自身へと還っていくのかを、私たちはもっと大切に見つめ直す必要があるのだと感じます。
自分自身への問いかけ
当事者意識の高い人が損をしない組織をつくること。
それは、単に評価制度という「数字」をいじることではないのかもしれません。
人の行動がどう循環し、どう報われるのかという「流れ」を整えること。
そして、「主体性とは何か」という問いを、安易に答えを出さずに持ち続けること。
私自身も、まだその途上にいます。
主体性という言葉を口にする前に、その背後にある構造の歪みに、まず私自身が目を向けていたい。
主体的であることは、本当にその人の「善き人生」に繋がっているだろうか。
そして私は、目の前の人と、どのような心で向き合う人間でありたいのか。
その答えを探しながら、今日もまた、ノートを広げています。
まとめ
- 主体性が個人の負担になっている組織構造の歪みを問い直す
- 主体性は資質ではなく、構造の中で意味を持つものとして捉える
- 行動が報われる設計と、主体性を強制しない在り方の重要性
併せて読みたい一冊
『世界は贈与でできている──資本主義の「すきま」を埋める倫理』近内悠太
「当事者意識の高い人が損をする」という歪みを、贈与と対価のバランスという視点から見つめ直せます。
自分の善意が誰かに届き、循環していくことの本来の意味を、静かに深く探求できる一冊です。
もっと深めるためのメモ
主体性の“定義そのもの”を疑ってみる
- 主体性とは「自分で考えて動くこと」なのか、それとも別のものなのか
- 主体性と責任感は同じものなのか、それとも異なるものなのか
- 主体性が高い人と、単に「断れない人」は何が違うのか
評価・報酬との関係から考えてみる
- 主体的な行動は、どのように評価されるべきなのか
- 評価されない主体性は、それでも価値があると言えるのか
- 短期的な成果と主体性は、どちらが優先されやすいのか
マネジメント側の責任に踏み込んでみる
- 主体性が発揮されないとき、それは誰の問題なのか
- 「主体的であれ」と言うことは、マネジメントの放棄になっていないか
- 任せることと、放置することの違いはどこにあるのか
組織の“空気”や文化に着目してみる
- 主体性が生まれる組織と、生まれない組織の違いは何か
- なぜ同じ制度でも、主体性が育つ組織と育たない組織があるのか
- 主体的に動くことが“浮く”組織は、何が起きているのか
個人の在り方に引き戻してみる
- 主体性を持つとは、結局どのような姿勢のことなのか
- 自分はなぜ主体的であろうとするのか
- 主体性を発揮することは、誰のための行為なのか