【課題3961】
私たちはなぜ、「やります」と言ったあとにすぐ、“やっている状態”に移れないのか。自分の考えをまとめてください。
「やります」という言葉は、本来「今」を動かすための光のようなもののはずです。
なのに、なぜ私たちは、その言葉を口にした瞬間に安心してしまい、
肝心の責任を「未来の自分」へと無意識に預けてしまうのでしょうか。
決意した瞬間の高揚感の中で、今の自分は「変われた自分」になったつもりで満足し、
実際に泥臭く動く苦労を、少し先の自分に丸投げしてしまう。
そんな、自分の中での小さな「責任の不在」が、
「やっている状態」へと足を踏み出すのを、静かに妨げているのかもしれません。
どうすれば、言葉を未来への手形にせず、今この瞬間の確かな歩みに変えていけるのか。
成功法則としてではなく、ひとつの「在り方」としての問いを、皆さんと分かち合いたいと思います。
- 言葉がもたらす、小さな全能感の正体
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「やります」と口にした瞬間に生まれるわずかな達成感が、本来必要な「動くためのエネルギー」を、静かに、けれど確実に削いでしまうという構造について
- 「やる」という言葉の輪郭と、横たわる時間の質
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定義の曖昧さが生む足踏みと、宣言した「点」から、状態としての「線」へ移るのを阻む、見えにくい時間の壁を見つめ直すこと
- 未来の自分に預けず、今の自分が引き受ける
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大きな変化を求めるのではなく、今この瞬間に自分ができる「最小の引き受け」こそが、言葉を「状態」へと変えていく起点になるのではないか、という問い
この記事は「やります」と「やっている状態」の間にある差について、セールスパーソンおよびビジネス指導者としての立場から、自分の在り方を整理し共有するものです。
「やります」と言ったはずなのに
「やります」と言ったはずなのに、気づくと景色が何も変わっていない。
この静かな違和感に、どこか覚えがある方も多いのではないでしょうか。
面談の席や、上司との対話のあと、自分なりに「次はこうしよう」と言葉にする。
その瞬間、自分は少しだけ高い場所に登ったような、そんな前向きな感覚に包まれます。
けれど、数日後、あるいは次の約束のとき。
同じ課題を前にして、立ち尽くしている自分に気づく。
あのときの「やります」は、一体どこに消えてしまったのか。
そんな澱のような違和感だけが、胸の奥に静かに残ることがあります。
言葉が生む、わずかな達成感
なぜ、「やります」と言えているのに、「やっている状態」には移れないのでしょうか。
考えてみると、「やります」と言葉にした瞬間に、
私たちはほんの少しだけ、“やった側”の領域に足を踏み入れた錯覚を持ってしまうのかもしれません。
実際には、まだ一歩も動いていない。
それにもかかわらず、言葉にしたことで、脳が「決意という仕事」を完了したと誤解し、わずかな達成感のようなものが生まれてしまう。
それはとても微細な満足感ですが、確かにそこに存在していて、
本来その後に続くはずの、行動に必要なエネルギーを少しずつ削ぎ落としていく。
言葉が、行動の代わりをしてしまう。
あるいは、言葉が行動を「追い越して」しまう。
そんな心理的な構造が、私たちのどこかにあるように感じます。
「やる」の輪郭は、思っているより曖昧
もう一つ感じるのは、「やる」という言葉が持つ、逃げ水のような曖昧さです。
「やります」と言ったとき、
その言葉が指し示すゴールがどこにあるのか。
自分の中でどれほど具体化されているかというと、案外ぼんやりとしていることも多いのではないでしょうか。
一度だけ、試してみればいいのか。
望む結果が出るまで、やり抜くのか。
それが当たり前になるまで、習慣にするのか。
この境界線は、本来とても険しく、大きな隔たりがあるはずです。
にもかかわらず、「やる」という万能な一言の中にそれらをすべて溶け込ませてしまう。
その結果、「やったとも言えないけれど、やっていないとも言い切れない」という、
輪郭のぼやけた中途半端な場所に、自分を留めてしまうのかもしれません。
「やる」という言葉は、前向きで力強い響きを持つ反面、
向き合うべき現実の輪郭を、もっとも曖昧にしやすい言葉でもある。そんな気がしてならないのです。
「やっている状態」には、時間が必要になる
さらに言えば、「やっている状態」とは、単発の行動を指すのではありません。
そこには必ず、ある程度の継続があり、積み重なりがあり、
他者からも、そして自分自身からも「やっている」と認められるだけの“時間の経過”が必要になります。
つまり、「やります」という宣言と、「やっている」という実態の間には、
一足飛びには越えられない、深く長い時間が横たわっているのです。
その時間を静かに歩み続ける前に、私たちはつい、
動いていない自分に焦り、もう一度「やります」という新しい手形を発行してしまう。
そしてまた、スタート地点へと引き返していく。
結果として、「やる」という宣言の数だけが増えていき、
「やっている状態」という確かな手触りは、いつまでも積み上がらない。
この繰り返しの中で、私たちは知らず知らずのうちに、自分への信頼を少しずつ削ってしまっているのかもしれません。
未来の自分に預けてしまう構造
では、この「言葉」と「状態」の差は、一体どこから生まれているのでしょうか。
ひとつの見方として、「やる」という行為を、無意識のうちに
“未来の自分がこなすべき仕事”として切り離して捉えている自分に気づきます。
「やります」と言った瞬間、その実行のバトンは、
今の自分から、これからの自分へと手渡されてしまう。
今の自分は、「決意を固めた、立派な人」として一度役割を終え、
実際に手を動かす苦労や責任は、すべて少し先の自分に委ねられる。
今の自分は変わらないまま、未来の自分にだけ期待を寄せる。
どこかで見覚えのある、そしてどこか居心地の悪い構造が、そこにはあるように感じます。
「今の自分が引き受ける」とはどういうことか
もしそうだとすると、「やっている状態」へと自分を移していくために必要なのは、
鋼のような強い意志や、劇的な環境の変化ではないのかもしれません。
むしろ、「やります」と言葉にしたその瞬間に、
今の自分として、どこまでその言葉を引き受けているのか。
その一点に、焦点があるように思うのです。
たとえば、
・その場で、ただ一つだけ動いてみる。
・最初の一歩を、指先で触れられるほどの具体的な行動にまで落とし込む。
・「いつかやる」という未来図ではなく、「今、何をするか」という足元の石を拾う。
どれも、拍子抜けするほど小さなことです。
けれど、その小ささこそが、
浮き足立った言葉と、地を這うような行動をつなぐ、確かな“橋”になるのではないでしょうか。
「やります」と言った瞬間に、
すでに何かが静かに、けれど決定的に始まっている状態。
その状態に、たとえ半歩でも近づけるかどうかが、
「やる」という宣言を、「やっている」という実態に変えていく、唯一の分かれ道なのかもしれません。
言葉ではなく、状態で語れる自分へ
正直に言えば、私自身もまだ、十分にはできていません。
それでも、私は「やります」という言葉の響きに寄りかかるのではなく、
自分自身の「状態」そのもので語れる人間でありたいと願っています。
「やる」と言った自分は、今、この瞬間に何をしているのか。
その問いから、目を逸らさないこと。
言葉で遠い未来を約束して自分を慰めるのではなく、
今の自分がどこに立ち、どの方向に一歩を踏み出しているのかを、ただ見つめること。
そのささやかな積み重ねの先にしか、
本当の意味での「やっている状態」はつくられていかないのではないか。
最近は、そんなふうに感じています。
では、あなたが「やります」と口にしたそのとき、
すでに何かは、その手の中で始まっているのでしょうか。
それとも、その言葉は、
また少し先の自分へと、そっと預けられているのでしょうか。
まとめ
- 「やります」は言葉にした瞬間、わずかな達成感を生み行動を弱めることがある
- 「やる」の定義の曖昧さと“時間の壁”が「やっている状態」への移行を妨げる
- 「今の自分が引き受ける小さな行動」が、状態を変える起点になる
併せて読みたい一冊
『習慣が10割』吉井雅之
「やる」と決めたことがなぜ続かないのかを、“意志”ではなく“習慣”という視点から見つめ直す一冊です。
「やっている状態」をどうつくるのか、そのヒントが静かに言語化されています。
もっと深めるためのメモ
- 私たちはなぜ、「やります」と言いながら、“最初の一歩”を決めないのか
-
“今の自分が引き受けること”にフォーカスしてみる。
- なぜ具体化しないのか
- なぜあいまいなままにするのか
- なぜ「いつか」になってしまうのか
- 私たちはなぜ、“一度やったこと”を続けられないのか
-
“継続”にフォーカスしてみる。
- なぜ止まるのか
- なぜ途切れるのか
- なぜ続かないのか
- 人はなぜ、“やっているつもり”になってしまうのか
-
“自己認識”にフォーカスしてみる。認識のズレに踏み込んでみる。
- 本当はやっていないのに、やっていると思っている
- 少しやったことで満足してしまう
- 基準が曖昧なまま自己評価してしまう