【課題3978】
私たちはなぜ、「本当はやりたいこと」をやらないのか。自分なりの考えをまとめてください。
「やってみたい」という小さな灯火を、自ら消してしまった記憶が私にはあります。
そのとき並べた「動かない理由」は、どれも自分を納得させるに十分な、正当なものでした。
けれど、時間が経ち、ふとした瞬間にその記憶が顔を出すとき。
あの頃の「正しさ」とは少し違う、静かな違和感が胸の奥を通り過ぎることがあります。
この記事では、以下の3つの視点から、私たちの足を止めるものの正体を紐解いてみたいと思います。
- 「正しさ」の裏側にあるもの
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動かない理由がどれほど正当に思えても、その奥底で私たちが本当に守ろうとしていた「正体」について見つめてみます。
- 準備という名の足止め
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「準備が整ってから」という言葉が、時に「一生始めないための完璧な計画」になってしまう矛盾について考えます。
- 「あり方」への問い直し
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間違えないことや完璧であることよりも、不完全なままの自分で「どうありたいか」という地平に静かに着地します。
この記事は「やりたいのにやらない理由」について、一人の人間としての在り方に焦点を当てながら、過去の自分を振り返りつつ思考を整理し共有するものです。
「今じゃない」と言い続けていた過去
「本当はやりたいことがある」
その微かな熱は、ずっと心のどこかにありました。
けれど私は、それを選びませんでした。
正確に言えば、選ばなかったというより、「今はまだそのときではない」と自分に言い聞かせることを、能動的に選び続けていたのだと思います。
「もっと力がついてから」
「恥をかかないだけの準備が整ってから」
そうやって、自分なりに筋の通った理由を一つずつ積み上げて、動かない自分を丁寧に守っていました。
当時はそれが、賢明で、誠実な判断だとさえ信じていたのです。
英語の前で立ち止まっていた自分
例えば、英語への向き合い方です。
「話せるようになりたい」という願いは、確かに私の内側にありました。
けれど、いざ実践の場を想像すると、真っ先に浮かぶのは言葉に詰まる自分の姿でした。
たどたどしい発音、適切な言葉が見つからずに立ち尽くす自分。
そんな不格好な姿を見て、誰かが密かに笑うのではないか。
実際に誰かに笑われた経験があったわけではありません。
それなのに、「笑われるかもしれない」という想像は、驚くほどの手触りを持って私を支配していました。
その恐れは、私の足を止めるには、あまりにも十分すぎる理由だったのです。
――あのとき、もしほんの少しでも、不格好なまま前に進んでいたら。
今ごろ私は、英語を道具として使いこなし、誰かと心を通わせる、少しは「様(さま)になる」大人になっていたのでしょうか。
そんな叶わなかった可能性を、ふとした瞬間に思い描くことがあります。
もちろん、思い通りにはいかなかったかもしれません。
途中で挫折し、投げ出していた可能性だって大いにあります。
それでも、「やっていたかもしれない自分」という輪郭をなぞるとき、
選ばなかった時間が積み重なった、目に見えない重さのようなものを、静かに感じてしまうのです。
守っていたのは、小さなプライドだったのかもしれない
あの頃の自分を振り返ってみると、決して怠けていたわけではなかったのだと思います。
むしろ、何かを必死に守ろうとしていた。
それはおそらく、「できない自分」を誰の目にもさらさないこと、だったのでしょう。
うまくできない姿を見せることは、自分という人間の価値が損なわれてしまうことと同じように感じていました。
だからこそ、もっともらしい「やらない理由」を丁寧に、大切に集めては、その場に踏みとどまることを選び続けていたのです。
けれどその選択は、何かを守る一方で、大切なものをいくつも静かに手放すことでもありました。
できるようになるかもしれない、という時間。
誰かと深く通じ合えたかもしれない、という瞬間。
そして何より、「自分で自分の道を選び取っている」という確かな実感。
守りたかった小さなプライドと引き換えに、私はそれらを、音を立てずに手放していたのかもしれません。
「間違えないこと」を優先していたということ
振り返ると、当時の私にとっての最優先事項は「間違えないこと」でした。
うまくできる確信が持てるまで、一歩も動かない。
失敗の影が差す場所には、決して近寄らない。
そうすることで、自分という存在の形を必死に保とうとしていたのだと思います。
そんなとき、ある言葉に触れました。
ピアニストの フジ子・ヘミング さんの言葉です。
間違えたっていいじゃない、機械じゃないんだから
この言葉は、乾いた心に優しく、深く響きました。
けれど同時に、当時の私にはどこか手の届かない、遠い世界の言葉のようにも感じられました。
私にとって恐ろしかったのは、間違えるという行為そのものではなかったからです。
「間違えた自分」が他者の目にどう映り、どう評価されるのか。
その視線の冷たさを、私は何よりも恐れていたのでした。
間違えることを受け入れるということ
それでも、時間が経つ中で少しずつ、違う景色が見えるようになりました。
「もっと力がついてから」
「恥をかかないだけの準備が整ってから」
あの日、私は確かにそう自分に言い聞かせていました。
けれど、今ならわかります。
一歩も踏み出さないまま力がつくことなどあり得ないし、一度も恥をかかずに準備が整う日など、永遠にやっては来ないのだということに。
当時は、それが自分を守るための「賢明な待機」だと思っていました。
けれど実際には、私は「始まらないための準備」を完璧に整えていただけだったのかもしれません。
英語をうまく話せない自分。
言葉に詰まりながら、それでも何かを伝えようとする不格好な自分。
もしあのとき、その「足りない姿」をそのまま受け入れられていたら。
格好よくはなくても、そのたどたどしさの中に、誰かと笑い合い、心が通じ合う豊かな時間があったはずです。
そう考えると、「間違えないこと」にこだわり続けていた時間は、当時の私が思っていたのとは、また別の色を帯びて見えてくるのです。
「やらない理由」は、いまも自分の中にある
実を言えば、いまでも「やらない理由」は、驚くほど簡単に見つかります。
時間が足りない、準備がまだ整っていない、そもそも自信がない。
それらの理由は、どれも客観的に見れば「もっともらしい」ものです。
だからこそ、私はその理由に、つい強く寄りかかりたくなってしまいます。
理由というのは、その瞬間の自分を守るための防衛本能のようなもの。
だからこそ、抗いがたい説得力を持って生まれてくるのでしょう。
けれど、その「正しい理由」に身を任せ続けていると、その裏側に隠れている大切なものが、また指の間からこぼれ落ちてしまうのではないか。
「やらない理由」がある一方で、「それでもやってみたい」という震えるような気持ちも確かにある。
その両方を、どちらか一方を消すのではなく、ただ静かに並べて見てみること。
それだけでも、次の瞬間の選び方は、少しだけ変わるのかもしれません。
完璧ではないまま、どうありたいのか
私は今でも、「やりたいこと」を迷いなく、颯爽(さっそう)と選べるわけではありません。
準備が足りないと言い訳をして、立ち止まってしまうこともあります。
それでも、「不格好に間違えてもいい」と思える瞬間が、以前より少しずつ増えてきました。
それだけで、重く感じていた選択の扉が、ほんの少しだけ軽くなったように感じています。
完璧であること、正解であることを目指すよりも、
不完全なままの自分を携えて、どうありたいのか。
それは一度きりの答えがある問いではなく、
日々の暮らしの中で、揺れ続けながら探し求めていくものなのだと思います。
自分への問いかけ
あのとき、一歩を踏み出さなかった自分は、きっと何かを懸命に守っていた。
それは決して否定すべき弱さではなく、その時の自分にとっては、切実に必要な盾だったのかもしれません。
ただ、そのとき握りしめていた「やらない理由」を、
今も同じように、握り続けている必要があるのでしょうか。
少しだけ立ち止まって、自分に問い直してみてもいいのかもしれません。
もし、あの日選ばなかった道の先に、
まだ見たことのない自分が待っているとしたら。
今のあなたは、どんな選択をしたいと思うでしょうか。
まとめ
- 「ちゃんとできるようになってから」という前提自体を問い直す
- やらない理由は自分を守るが、同時に可能性も閉じている
- 不完全なままどうありたいかを問い続けることが重要
併せて読みたい一冊
『不完全主義 限りある人生を上手に過ごす方法』オリバー・バークマン
「すべてをうまくやろうとするほど、かえって何も進まなくなる」──そんな逆説に気づかせてくれる一冊です。
限られた時間の中で、不完全なまま選び、進むことの意味を、静かに問い直したくなるような内容です。
もっと深めるためのメモ
「やらない理由」の正体をさらに分解してみる
- 私たちは何を「失う」と感じたときに、行動を止めるのか
- 「恥ずかしさ」とは何を守ろうとする感情なのか
- なぜ他人の評価は、ここまで行動に影響を与えるのか
「やらなかった後」に焦点を当ててみる
- やらなかった選択は、自分にどんな影響を残すのか
- 「やらなかった後悔」と「やった後悔」は、どう違うのか
- 人はなぜ、過去の選択を美化したり後悔したりするのか
「やる人」との違いを考えてみる
- 同じ不安を感じながらも、やる人は何が違うのか
- 行動する人は、恐れをどう扱っているのか
- 「自信があるからやる」のか、「やるから自信がつく」のか
「完璧主義」との関係から深めてみる
- なぜ私たちは「ちゃんとできる状態」を求めてしまうのか
- 完璧であろうとすることは、本当に悪いことなのか
- 不完全なまま進むとは、どういう状態なのか
「在り方」から考えてみる
- 自分は、どんなときに「逃げた」と感じるのか
- 自分にとって「挑戦している状態」とは何か
- どんな自分であれば、「やらなかったこと」を受け入れられるのか
その他の角度から考えてみる
- もし「失敗しても誰にも知られない」としたら、人は挑戦するのか
- 子どもの頃はなぜ、あんなに簡単に挑戦できていたのか
- 「やらないこと」を選ぶことは、本当に悪いことなのか